2016年07月31日
うなぎ食べました?

昨日は土用の丑の日。
スーパーとかでは店先で実演販売するなど、街のあちこちから、うなぎをたれで焼く匂いがしてきました。
カロリーが少し気になりつつも、みんなで国産うなぎの大きな蒲焼を2本。
少し贅沢な気がしましたが、年に一度のことだしね。

山椒にたれをたっぷりかけて、アツアツのご飯でいただくと、ホントに美味しい!
暑さも疲れも吹っ飛びますね。
というささやかな幸せ。
なのに今日はうなぎの効果なく、朝から暑さにまいっています^^;
2016年07月30日
夜間巡視
昨夜、中学校のPTAと先生方で、校区の夜間巡視を行いました。
とは言ってもそんな深夜じゃないですけどね^^;
24名のメンバーで、コースを4つに分けて見回りをしてみました。
私たちは校区内にあるTSUTAYA、八幡神社、公園やコンビニを周りましたけど、何の異常もなし。


平和そのもの。
むしろ静かすぎるのが気になったぐらいかな^^;
人がたくさんいた頃は、トラブルも多くて少しうんざりすることもあったけど、最近は少しずつ人が減って。
ポツリポツリと街の日が消えていくような感覚になります。
取り戻せるから な。
かつてのにぎわい(^ ^)
とは言ってもそんな深夜じゃないですけどね^^;
24名のメンバーで、コースを4つに分けて見回りをしてみました。
私たちは校区内にあるTSUTAYA、八幡神社、公園やコンビニを周りましたけど、何の異常もなし。


平和そのもの。
むしろ静かすぎるのが気になったぐらいかな^^;
人がたくさんいた頃は、トラブルも多くて少しうんざりすることもあったけど、最近は少しずつ人が減って。
ポツリポツリと街の日が消えていくような感覚になります。
取り戻せるから な。
かつてのにぎわい(^ ^)
Posted by フランク翔太 at
11:06
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2016年07月29日
高松商業に行ってみたら
今日午前中、高松商業による用事があったので、朝9時から2時間ほど立ち寄ってきました。
先日の高校野球の負けた記憶がまだ冷めやらないので、どうしても悔しい思いが沸き上がってきます。


帰り際に玄関先で、4番を打っていた植田響介君に出くわしました。
外部の来客を待っていたようで、もしかしたら進路関係の方かもしれません。
お客さんと挨拶をかわしながら、校舎の中に入って行きました。
彼は東京六大学への進学が希望だと聞いています。
新しいところでも、活躍を祈りたいですね(^ ^)
先日の高校野球の負けた記憶がまだ冷めやらないので、どうしても悔しい思いが沸き上がってきます。


帰り際に玄関先で、4番を打っていた植田響介君に出くわしました。
外部の来客を待っていたようで、もしかしたら進路関係の方かもしれません。
お客さんと挨拶をかわしながら、校舎の中に入って行きました。
彼は東京六大学への進学が希望だと聞いています。
新しいところでも、活躍を祈りたいですね(^ ^)
Posted by フランク翔太 at
11:30
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2016年07月28日
平井さんというカリスマアスリート(3)
<50歳で挑んだ3度目のTJAR>
50歳で出場した3度目のTJAR、12年大会は、NHKの取材が入った。満足に練習を積めなかったのに加え、大会前の7月には地元・徳島で自動車の追突事故に遭い、むちうち症になり、股関節も痛めてしまう。事故直後はDNSもよぎったというが、スタートラインに立つことは叶った。痛み止めの鍼を打ち、本番に挑んだ。
万全の状態からは程遠かったが「今年こそは」と意気込んでいた。不安定な天候で、北アルプス・西鎌尾根では風速25mもの風が吹き荒れる中、「5回くらい飛ばされかけた」。それまでは東山高志と行動を共にしていた。上高地以降は、宮崎崇徳、福山智之、田中尚樹らも合流し、前後しながら、和やかな雰囲気で進んだ。
「みんなでトンネル地帯を越えて、足湯に浸かって、スーパーまるとで休憩して……」
楽しかった場面が強く印象に残っている。

万全の調子ではなかったが、レース中は笑顔を絶やさなかった(写真提供=平井)
南アルプスに入ってからは、大雨と雷雨に見舞われた。仙丈ヶ岳では、太腿に原因不明の発疹が現われるなど体に異変が起きていた。それでも前進を続けたが、ソケイ部のリンパが腫れ上がり、その影響か足が思うように動かなくなっていた。
赤石岳まで到達したが、馬ノ背へ向かう岩石の斜面で前胸骨から落ちる転倒。これにより、歩くのも困難に。心拍が異様に上がり、左脚の大腿四頭筋が強い力で圧迫されたような症状で膝が曲がらなくなった。百間洞まで進んだが、「時間を逆算し、関門には完全に間に合わないと判断」(平井)、リタイアを決めた。最後は、レインウェアのフードを被って涙を流す姿が、NHK番組でも放映された。
大会後、病院で診てもらうと「体じゅうに水が充満していて、胸水まで溜まっている」と診断された。
12年以降も、仕事で忙しく練習が思うようにできない状態は続いていた。だが、まだ完走を果たしていない。多忙な中、参加要件をクリア、14年大会に臨んだ。選考会と抽選も突破し、52歳での4度目の挑戦を決めた。
<14年は「波乱と誤算のレース」>
14年大会は、史上最悪ともいわれた悪天候に見舞われた。振り返って「波乱と誤算のレース」と平井。
印象に残る場面は、やはり初日の台風だ。経験豊富な平井にとっても、これまでに経験したことのないレベルの暴風雨だった。
「皆さんそうだと思うけど、台風の中突っ込んでよかったのかという思いはありました。全員が無事でよかったなと……」

序盤のコースが変更となった14年、立山駅を通過する平井(写真=杉村航/MtSN)
10、12年と足の痛みに苦しんだ経験から、足裏のケアを怠ってはいけないと、とにかくケアを徹底しながら進んでいた。悪天候にも阻まれ、市野瀬では計画よりも10時間のオーバー。
ボーダーラインでの完走を狙っていたものの、「どこかで誤算があればアウト」というギリギリの状況だった。
序盤から行動を共にすることが多かったのが、江口航平だ。5日目、市野瀬からも一緒に出発、長い地蔵尾根では、江口は「置いていかれないように」、平井の背中を追った。
6日目、15日へと日付が変わり、松峰小屋を過ぎたあたりで、1時間ほど仮眠。この後、仙丈ヶ岳から江口が先行し、平井は単独となった。

4日目、中央アルプスを進む。後方は江口(写真=藤巻 翔)
疲労が極限になり、ペースが上がらないながらも、塩見岳まで「一気に」進んだ。もうすぐ日没という時間帯、霧で視界は悪く、雨風も強くなってきた。
三伏峠小屋の関門まで残り1時間半だったが、地図上でのコースタイムは4時間10分。平井の中に、絶望感が広がった。
この後、緊張感が切れたのか、判断力が著しく低下。
「東峰と西峰をなぜか、行ったり来たりしながら進む方向を見失ってしまった」
風雨と霧で視界不良の中、地図とコンパスで現在地を確かめようとするも、頭の中が混乱し、冷静な判断ができない状態だった。正気に戻ったとき、「私は今、おかしいに違いない。いずれにしても間に合わないから、ここでとどまろう」と前進を断念、事務局に連絡を入れ、塩見岳・西峰でビバークした。
「塩見岳の山頂の少し下がったところで。ほとんど山頂でした(笑)」
そう平井は振り返る。
それまでも山の怖さは幾度となく経験してきた。09年には、南アルプスを縦走中、震度6の静岡地震が起きたこともある。そのときのことがよぎりながらも、暴風雨の中のビバーク。ツエルトは風で揺さぶられていた。平井は、ビバーク中に何度も地震の夢を見たという。
翌朝、目が覚めると、西峰だと思っていたビバーク箇所は、東峰だった。把握していた現在地が違っていたことに、平井は愕然とした。
この後、三伏峠でタイムオーバー。4度目の挑戦は、南アルプスで幕を閉じた。
振り返って、平井は語る。
「ペース配分が悪かったですね。台風の影響もあって、いつもより1日以上遅れていたので。ただでさえ厳しいのに、完走できるペースでは進めていなかった。自分としては情けない限り。練習不足だと思います。12、14年は、本当に出場していいのかしらと、後ろめたい気持ちがあるほどに練習ができていなかった」
[続く]
50歳で出場した3度目のTJAR、12年大会は、NHKの取材が入った。満足に練習を積めなかったのに加え、大会前の7月には地元・徳島で自動車の追突事故に遭い、むちうち症になり、股関節も痛めてしまう。事故直後はDNSもよぎったというが、スタートラインに立つことは叶った。痛み止めの鍼を打ち、本番に挑んだ。
万全の状態からは程遠かったが「今年こそは」と意気込んでいた。不安定な天候で、北アルプス・西鎌尾根では風速25mもの風が吹き荒れる中、「5回くらい飛ばされかけた」。それまでは東山高志と行動を共にしていた。上高地以降は、宮崎崇徳、福山智之、田中尚樹らも合流し、前後しながら、和やかな雰囲気で進んだ。
「みんなでトンネル地帯を越えて、足湯に浸かって、スーパーまるとで休憩して……」
楽しかった場面が強く印象に残っている。

万全の調子ではなかったが、レース中は笑顔を絶やさなかった(写真提供=平井)
南アルプスに入ってからは、大雨と雷雨に見舞われた。仙丈ヶ岳では、太腿に原因不明の発疹が現われるなど体に異変が起きていた。それでも前進を続けたが、ソケイ部のリンパが腫れ上がり、その影響か足が思うように動かなくなっていた。
赤石岳まで到達したが、馬ノ背へ向かう岩石の斜面で前胸骨から落ちる転倒。これにより、歩くのも困難に。心拍が異様に上がり、左脚の大腿四頭筋が強い力で圧迫されたような症状で膝が曲がらなくなった。百間洞まで進んだが、「時間を逆算し、関門には完全に間に合わないと判断」(平井)、リタイアを決めた。最後は、レインウェアのフードを被って涙を流す姿が、NHK番組でも放映された。
大会後、病院で診てもらうと「体じゅうに水が充満していて、胸水まで溜まっている」と診断された。
12年以降も、仕事で忙しく練習が思うようにできない状態は続いていた。だが、まだ完走を果たしていない。多忙な中、参加要件をクリア、14年大会に臨んだ。選考会と抽選も突破し、52歳での4度目の挑戦を決めた。
<14年は「波乱と誤算のレース」>
14年大会は、史上最悪ともいわれた悪天候に見舞われた。振り返って「波乱と誤算のレース」と平井。
印象に残る場面は、やはり初日の台風だ。経験豊富な平井にとっても、これまでに経験したことのないレベルの暴風雨だった。
「皆さんそうだと思うけど、台風の中突っ込んでよかったのかという思いはありました。全員が無事でよかったなと……」

序盤のコースが変更となった14年、立山駅を通過する平井(写真=杉村航/MtSN)
10、12年と足の痛みに苦しんだ経験から、足裏のケアを怠ってはいけないと、とにかくケアを徹底しながら進んでいた。悪天候にも阻まれ、市野瀬では計画よりも10時間のオーバー。
ボーダーラインでの完走を狙っていたものの、「どこかで誤算があればアウト」というギリギリの状況だった。
序盤から行動を共にすることが多かったのが、江口航平だ。5日目、市野瀬からも一緒に出発、長い地蔵尾根では、江口は「置いていかれないように」、平井の背中を追った。
6日目、15日へと日付が変わり、松峰小屋を過ぎたあたりで、1時間ほど仮眠。この後、仙丈ヶ岳から江口が先行し、平井は単独となった。

4日目、中央アルプスを進む。後方は江口(写真=藤巻 翔)
疲労が極限になり、ペースが上がらないながらも、塩見岳まで「一気に」進んだ。もうすぐ日没という時間帯、霧で視界は悪く、雨風も強くなってきた。
三伏峠小屋の関門まで残り1時間半だったが、地図上でのコースタイムは4時間10分。平井の中に、絶望感が広がった。
この後、緊張感が切れたのか、判断力が著しく低下。
「東峰と西峰をなぜか、行ったり来たりしながら進む方向を見失ってしまった」
風雨と霧で視界不良の中、地図とコンパスで現在地を確かめようとするも、頭の中が混乱し、冷静な判断ができない状態だった。正気に戻ったとき、「私は今、おかしいに違いない。いずれにしても間に合わないから、ここでとどまろう」と前進を断念、事務局に連絡を入れ、塩見岳・西峰でビバークした。
「塩見岳の山頂の少し下がったところで。ほとんど山頂でした(笑)」
そう平井は振り返る。
それまでも山の怖さは幾度となく経験してきた。09年には、南アルプスを縦走中、震度6の静岡地震が起きたこともある。そのときのことがよぎりながらも、暴風雨の中のビバーク。ツエルトは風で揺さぶられていた。平井は、ビバーク中に何度も地震の夢を見たという。
翌朝、目が覚めると、西峰だと思っていたビバーク箇所は、東峰だった。把握していた現在地が違っていたことに、平井は愕然とした。
この後、三伏峠でタイムオーバー。4度目の挑戦は、南アルプスで幕を閉じた。
振り返って、平井は語る。
「ペース配分が悪かったですね。台風の影響もあって、いつもより1日以上遅れていたので。ただでさえ厳しいのに、完走できるペースでは進めていなかった。自分としては情けない限り。練習不足だと思います。12、14年は、本当に出場していいのかしらと、後ろめたい気持ちがあるほどに練習ができていなかった」
[続く]
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22:46
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2016年07月27日
平井さんというカリスマアスリート(2)
<TJARへの挑戦>
TJARの存在を知ったのは、この頃だ。
「徳島県山岳連盟の知人が、当時愛知県山岳会の常任理事だった岩瀬幹生さん(TJAR創始者)と知り合いだったんです」
その知人から『友人(岩瀬)が、アルプスを縦断するレースを開催しているから、出てみたらどうだ?』と声がかかった。
当時の平井は、トレイルレースでは活躍していたが、アルプスには行ったことがなかった。だが、得意とする超長距離のレース、しかもコースは日本海から太平洋までという“一筆書き”だ。好きなタイプのレースであることは間違いなかった。興味を持ち、06年の選考会に参加してみることにした。
「アルプスは初めてで、こんな世界があるんだと衝撃を受けました。大きい山ばかりですごいなぁと。心を打たれて『この大会を完走したい!』と強く思いました」
選考会の結果、合格。だが、平井は自身のアルプスの経験不足が気にかかっていた。「まだ中央も南も北も知らない状態。もう少し経験してから、また挑戦しよう」と出場を見送った。
06年大会は応援に行った。出場選手6名、完走2名、という年だ。
「情報もなくて、早月川の河口をスタートして大浜海岸にゴールすればいい、とだけ聞いていて、コースもよくわからなかった。三俣蓮華岳のあたりで待っていたけど、結局誰にも会えませんでした(苦笑)」
08年大会をめざし、06年以降、本格的に山にも取り組み始めた。
「もっといろいろな山に行ってみたい、と思いました。山岳保険と同時に山岳会にも入って、経験豊富な人たちから山の知識を教えてもらいながら、山に通うようになりました」
夏山シーズンが終わると、冬山にも挑戦した。その年の12月には、山岳会の仲間たちと劔岳をめざした。
「標高2700m弱のところで、悪天候のため、リーダーの判断で下山しました」
平井にとって経験豊かなメンバーたちの存在は大きかった。だが翌年、このとき一緒に登ったリーダーとメンバーの1人が、槍平で雪崩に遭い、帰らぬ人となった。
「リーダーだった彼はアルパインクライミングでは県下ナンバーワンというほどの実力の持ち主で、技術力・指導力も高かった。そして“安全”を一番に提唱していただけに、衝撃でした」
ショックは大きく、山や自然の厳しさ、怖さを痛感した出来事だった。

山岳会でイチから山の知識、技術を学んだ。06年12月、仲間たちと劔岳をめざす平井(悪天候のため途中下山)。
このとき同行したリーダーとメンバ―の1人が翌年、槍平で遭難。08年TJARで平井は、槍ヶ岳を通過する際、この仲間たちを想い、
「槍平に向けて祈りを捧げた」という(写真提供=平井)
そして2年越しの出場となった08年TJARは――。
「体力的にもいちばん充実していたけど、すぐにケガをしてしまった。初日は五色ヶ原でビバークして2日目の朝。天気もよくすがすがしい朝でした。スタートしてしばらく行ったあたりで、足を滑らせて2mほど滑落してしまった。完全に自分の不注意、うっかりミスです」
段差に落ちた拍子に、岩に背中をぶつけ、激しい衝撃と痛みを感じた。あとで、あばらを2本骨折していたことがわかった。
「このときは、折れていることはわからなかったけど、痛くて痛くて、北アルプスは残雪があったので、雪でアイシングしながら進みました。レースはなんとか続けたかったけど、駒ヶ根で『これはもう無理だ』と……」
痛みに耐えかね、駒ヶ根でリタイアを決めた。実は、平井にとって骨折は人生初めての経験だった。回復には1カ月ほどかかった。
調子が良かっただけに、悔やまれるリタイアだったが、平井の意識はすぐに2年後に向いた。トライアスロンやアドベンチャーレースに取り組みながら、アルプスにも通った。

08年大会、劔岳にて(写真提供=平井)
<足裏の痛みに苦しんだ10年大会>
10年大会当時は48歳。この年から出場選手中最年長となった。天候は、前半は比較的安定していたが、後半は台風の影響もあり悪コンディションとなった。平井は安全面を確保しながら確実に進むため、ビバーク時間を長めにとっていた。また、悪天候だったことで足裏がふやけ、しわが深く刻まれ、そこが傷になり、強い痛みに悩まされた。
最終的には「足の傷が化膿しはじめ痛みがひどくなってきたこと」、3日間雨ざらしで冷やされたのか、持病の腰痛が発症。「コースタイム程度のスピードでしか進めなくなり」関門が絶望的な状態となった。
このまま進んでは迷惑をかけると判断、リタイアを決意。6日目に三峰岳に到着後、間ノ岳、北岳を経て、広河原に下山した。
10年大会後は、職場の部署異動という大きな環境の変化があった。
「それまで事務職だったので、遅くとも18時には退社してトレーニングに時間を使うことができた。でも営業職に変わって、そうもいかなくなりました。営業は、相手先があっての仕事。帰りが午前様になることも珍しくないような状態で、自分で時間のコントロールができなくなった」
トレーニングに時間がかかるトライアスロンも、この頃から中断している。
思うような練習ができない中、帰宅後の10㎞のランニングは続け、土日は山に通い、TJARの参加要件は満たした。
[続く]
TJARの存在を知ったのは、この頃だ。
「徳島県山岳連盟の知人が、当時愛知県山岳会の常任理事だった岩瀬幹生さん(TJAR創始者)と知り合いだったんです」
その知人から『友人(岩瀬)が、アルプスを縦断するレースを開催しているから、出てみたらどうだ?』と声がかかった。
当時の平井は、トレイルレースでは活躍していたが、アルプスには行ったことがなかった。だが、得意とする超長距離のレース、しかもコースは日本海から太平洋までという“一筆書き”だ。好きなタイプのレースであることは間違いなかった。興味を持ち、06年の選考会に参加してみることにした。
「アルプスは初めてで、こんな世界があるんだと衝撃を受けました。大きい山ばかりですごいなぁと。心を打たれて『この大会を完走したい!』と強く思いました」
選考会の結果、合格。だが、平井は自身のアルプスの経験不足が気にかかっていた。「まだ中央も南も北も知らない状態。もう少し経験してから、また挑戦しよう」と出場を見送った。
06年大会は応援に行った。出場選手6名、完走2名、という年だ。
「情報もなくて、早月川の河口をスタートして大浜海岸にゴールすればいい、とだけ聞いていて、コースもよくわからなかった。三俣蓮華岳のあたりで待っていたけど、結局誰にも会えませんでした(苦笑)」
08年大会をめざし、06年以降、本格的に山にも取り組み始めた。
「もっといろいろな山に行ってみたい、と思いました。山岳保険と同時に山岳会にも入って、経験豊富な人たちから山の知識を教えてもらいながら、山に通うようになりました」
夏山シーズンが終わると、冬山にも挑戦した。その年の12月には、山岳会の仲間たちと劔岳をめざした。
「標高2700m弱のところで、悪天候のため、リーダーの判断で下山しました」
平井にとって経験豊かなメンバーたちの存在は大きかった。だが翌年、このとき一緒に登ったリーダーとメンバーの1人が、槍平で雪崩に遭い、帰らぬ人となった。
「リーダーだった彼はアルパインクライミングでは県下ナンバーワンというほどの実力の持ち主で、技術力・指導力も高かった。そして“安全”を一番に提唱していただけに、衝撃でした」
ショックは大きく、山や自然の厳しさ、怖さを痛感した出来事だった。

山岳会でイチから山の知識、技術を学んだ。06年12月、仲間たちと劔岳をめざす平井(悪天候のため途中下山)。
このとき同行したリーダーとメンバ―の1人が翌年、槍平で遭難。08年TJARで平井は、槍ヶ岳を通過する際、この仲間たちを想い、
「槍平に向けて祈りを捧げた」という(写真提供=平井)
そして2年越しの出場となった08年TJARは――。
「体力的にもいちばん充実していたけど、すぐにケガをしてしまった。初日は五色ヶ原でビバークして2日目の朝。天気もよくすがすがしい朝でした。スタートしてしばらく行ったあたりで、足を滑らせて2mほど滑落してしまった。完全に自分の不注意、うっかりミスです」
段差に落ちた拍子に、岩に背中をぶつけ、激しい衝撃と痛みを感じた。あとで、あばらを2本骨折していたことがわかった。
「このときは、折れていることはわからなかったけど、痛くて痛くて、北アルプスは残雪があったので、雪でアイシングしながら進みました。レースはなんとか続けたかったけど、駒ヶ根で『これはもう無理だ』と……」
痛みに耐えかね、駒ヶ根でリタイアを決めた。実は、平井にとって骨折は人生初めての経験だった。回復には1カ月ほどかかった。
調子が良かっただけに、悔やまれるリタイアだったが、平井の意識はすぐに2年後に向いた。トライアスロンやアドベンチャーレースに取り組みながら、アルプスにも通った。

08年大会、劔岳にて(写真提供=平井)
<足裏の痛みに苦しんだ10年大会>
10年大会当時は48歳。この年から出場選手中最年長となった。天候は、前半は比較的安定していたが、後半は台風の影響もあり悪コンディションとなった。平井は安全面を確保しながら確実に進むため、ビバーク時間を長めにとっていた。また、悪天候だったことで足裏がふやけ、しわが深く刻まれ、そこが傷になり、強い痛みに悩まされた。
最終的には「足の傷が化膿しはじめ痛みがひどくなってきたこと」、3日間雨ざらしで冷やされたのか、持病の腰痛が発症。「コースタイム程度のスピードでしか進めなくなり」関門が絶望的な状態となった。
このまま進んでは迷惑をかけると判断、リタイアを決意。6日目に三峰岳に到着後、間ノ岳、北岳を経て、広河原に下山した。
10年大会後は、職場の部署異動という大きな環境の変化があった。
「それまで事務職だったので、遅くとも18時には退社してトレーニングに時間を使うことができた。でも営業職に変わって、そうもいかなくなりました。営業は、相手先があっての仕事。帰りが午前様になることも珍しくないような状態で、自分で時間のコントロールができなくなった」
トレーニングに時間がかかるトライアスロンも、この頃から中断している。
思うような練習ができない中、帰宅後の10㎞のランニングは続け、土日は山に通い、TJARの参加要件は満たした。
[続く]
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22:00
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2016年07月26日
平井さんというカリスマアスリート(1)
TJAR(トランスジャパンアルプスレース)をご存知ですか?
日本海から太平洋まで、日本アルプスを400kmあまりを自力で縦断して走りきるレースがあります。
制限時間は7日間。
今年ももうじき開催されます。
私の知り合いで平井さんという女性が、前回まで4度チャレンジされています。
全国で30名ほどの参加者なのに、平井さんは数少ない女性ランナーとして参加されました。
驚くべきは彼女だけが50台の最高齢ランナーであることです。
そんな平井さんの武勇伝がネットに掲載されていました。
2014年の勇者たち(27)平井小夜子 ナンバーカード30 DNF(6日間11時間50分 三伏峠CP)※4度目の出場
初出場の08年から4大会連続出場の平井小夜子。12、14年は、出場選手中最年長だった。序盤に骨折し中央アルプスでリタイアした08年大会を除けば、3大会連続で南アルプスまで到達しているが、いまだ完走の経験はない。事情により16年大会はエントリーを見送ったが、「あきらめず、夢は持っていたい。また挑戦したい」と熱い気持ちを抱き続けている。

ミラージュランドでの開会式。14年大会はビブスナンバー30番で挑んだ(写真=杉村航/MtSN)
生まれは徳島県。社会人になってからは、仕事の都合で現在は香川県に住んでいる。高校時代は写真部に在籍していた。学生時代の運動部経験はない。20歳前後の頃は、スキューバダイビングに熱中していた。
「もともと自然とかアウトドアは好きだった。でも当時は海派。山に行くことはなかったです」
社会人になり、24歳の頃、知人の勧めでランニングを始めた。走っているうちに距離が延び、フルマラソンにも出場するようになった。記録は二の次、楽しむことが目的のファンランナーだった。
転機となったのは、96年に行なわれた第2回四万十川ウルトラマラソン。当時、34歳だった。
平井にとって初めてのウルトラマラソンだった。だが、何が何でも完走、とまでの思いはなかった。20km地点あたりでツラくなり平井は「やーめた」と、リタイアを決めた。すると――。
「あんたね、ウルトラマラソンをなめるんじゃないわよ!」
ちょうど居合わせた、盲人ランナーの伴走をしていた知人の女性から檄をとばされた。
「アメリカ横断やトランスヨーロッパとかに出ている方なんですけど、私がリタイアしようとしたら『そんな簡単にリタイアするなら、ウルトラになんて挑戦するんじゃない』と思い切り怒られて(苦笑)。そこから、ちゃんと練習をし出した感じですね」
それまで楽しめればいい、と思っていたが、気持ちを入れ替えた。練習量が増えれば、記録が向上する。おもしろくなり、さらに練習する……。ファンランナーだった平井は、競技志向でランニングに取り組むようになった。
だが、走る量が増えれば、体への負担、ケガのリスクも大きくなる。平井は椎間板ヘルニアを患ってしまう。
「(医者から)走るのを止められて、『プールならいいよ』と。だからジムに入って水泳を始めたんです」
この頃、地元・徳島でアクアスロンの「ごっついまんレース」が開催された。大会ボランティアスタッフの依頼があり、平井は海を監視するスタッフとして参加。レスキューとしてアクアラング(水中呼吸用具)で水中監視していた。
「それまで、陸からトライアスロンの選手が泳ぐのを見ても、特別に何か感じたことはなかった。このとき、海を泳ぐ選手たちを海底から見上げて、まるで回遊魚が通り過ぎるような迫力、スピード感に圧倒されました。かっこいいな、トライアスロンをやってみたいな、と。水泳を始めたところだったので、このまま頑張れば私にもできるかなと……」
意外なことに「高校時代まで5mしか泳げなかった」という平井。「トライアスロンのレースに出場する!」と目標を掲げた。ジムに通い水泳に熱中するうちに、泳げる距離は25m、50m、100m……と伸びていった。同時期に自転車も購入。平井はトライアスロンにはまっていった。
99年にトライアスロンデビュー(奄美レディーストライアスロン、完走)。以降は持久力を必要とするロングのレース(スイム3.8km、バイク180km、ラン42.195km)を中心に出場するようになる。以来、力をつけ、02年にはアイアンマンのハワイ大会に出場するほどになった。トレイルランという言葉はまだなかった時代だが、ランの練習を兼ねて、四国の遍路道など山道もよく走っていた。

トライアスロンに熱中していた頃

02年ハワイアイアンマンに出場(写真提供=平井)
「体力、競技力がピークだった」(平井)という05年前後のトレーニング量は、自転車で月1000㎞、ラン300~500㎞だった。
この頃は、ウルトラマラソンやアドベンチャーレースで優勝や入賞多数。大阪国際女子マラソンなど、国際レースにも出場するようになった。ウルトラマラソンではサブ10も果たした。関西夢街道グレートRUN(320㎞)完走、名古屋から金沢のさくら道ネイチャー国際ラン250㎞も好記録で完走するなど、超長距離にも強さを見せていた。
「一筆書きで長い距離のレースが好きで、いろいろ出ましたね」
自宅から大会会場まで走っていき、その大会で優勝、という有名なエピソードもある。自宅から大会会場まで走っていくことは、この頃から「よくやっていた」と平井。
「家から100㎞くらい離れているレースに出るために、前日の夜に出発して走っていったり。レースが終わってから、山に走りにいったりとか。1日24時間あるのに、たかだか1、2時間とか3、4時間のレースのために1日が終わっちゃうのがもったいなくて、前の夜から体を動かす。そういう時間の使い方をしていましたね」
四国を中心に、アマチュアアスリートとして名の知られた存在になっていた。
[続く]
日本海から太平洋まで、日本アルプスを400kmあまりを自力で縦断して走りきるレースがあります。
制限時間は7日間。
今年ももうじき開催されます。
私の知り合いで平井さんという女性が、前回まで4度チャレンジされています。
全国で30名ほどの参加者なのに、平井さんは数少ない女性ランナーとして参加されました。
驚くべきは彼女だけが50台の最高齢ランナーであることです。
そんな平井さんの武勇伝がネットに掲載されていました。
2014年の勇者たち(27)平井小夜子 ナンバーカード30 DNF(6日間11時間50分 三伏峠CP)※4度目の出場
初出場の08年から4大会連続出場の平井小夜子。12、14年は、出場選手中最年長だった。序盤に骨折し中央アルプスでリタイアした08年大会を除けば、3大会連続で南アルプスまで到達しているが、いまだ完走の経験はない。事情により16年大会はエントリーを見送ったが、「あきらめず、夢は持っていたい。また挑戦したい」と熱い気持ちを抱き続けている。

ミラージュランドでの開会式。14年大会はビブスナンバー30番で挑んだ(写真=杉村航/MtSN)
生まれは徳島県。社会人になってからは、仕事の都合で現在は香川県に住んでいる。高校時代は写真部に在籍していた。学生時代の運動部経験はない。20歳前後の頃は、スキューバダイビングに熱中していた。
「もともと自然とかアウトドアは好きだった。でも当時は海派。山に行くことはなかったです」
社会人になり、24歳の頃、知人の勧めでランニングを始めた。走っているうちに距離が延び、フルマラソンにも出場するようになった。記録は二の次、楽しむことが目的のファンランナーだった。
転機となったのは、96年に行なわれた第2回四万十川ウルトラマラソン。当時、34歳だった。
平井にとって初めてのウルトラマラソンだった。だが、何が何でも完走、とまでの思いはなかった。20km地点あたりでツラくなり平井は「やーめた」と、リタイアを決めた。すると――。
「あんたね、ウルトラマラソンをなめるんじゃないわよ!」
ちょうど居合わせた、盲人ランナーの伴走をしていた知人の女性から檄をとばされた。
「アメリカ横断やトランスヨーロッパとかに出ている方なんですけど、私がリタイアしようとしたら『そんな簡単にリタイアするなら、ウルトラになんて挑戦するんじゃない』と思い切り怒られて(苦笑)。そこから、ちゃんと練習をし出した感じですね」
それまで楽しめればいい、と思っていたが、気持ちを入れ替えた。練習量が増えれば、記録が向上する。おもしろくなり、さらに練習する……。ファンランナーだった平井は、競技志向でランニングに取り組むようになった。
だが、走る量が増えれば、体への負担、ケガのリスクも大きくなる。平井は椎間板ヘルニアを患ってしまう。
「(医者から)走るのを止められて、『プールならいいよ』と。だからジムに入って水泳を始めたんです」
この頃、地元・徳島でアクアスロンの「ごっついまんレース」が開催された。大会ボランティアスタッフの依頼があり、平井は海を監視するスタッフとして参加。レスキューとしてアクアラング(水中呼吸用具)で水中監視していた。
「それまで、陸からトライアスロンの選手が泳ぐのを見ても、特別に何か感じたことはなかった。このとき、海を泳ぐ選手たちを海底から見上げて、まるで回遊魚が通り過ぎるような迫力、スピード感に圧倒されました。かっこいいな、トライアスロンをやってみたいな、と。水泳を始めたところだったので、このまま頑張れば私にもできるかなと……」
意外なことに「高校時代まで5mしか泳げなかった」という平井。「トライアスロンのレースに出場する!」と目標を掲げた。ジムに通い水泳に熱中するうちに、泳げる距離は25m、50m、100m……と伸びていった。同時期に自転車も購入。平井はトライアスロンにはまっていった。
99年にトライアスロンデビュー(奄美レディーストライアスロン、完走)。以降は持久力を必要とするロングのレース(スイム3.8km、バイク180km、ラン42.195km)を中心に出場するようになる。以来、力をつけ、02年にはアイアンマンのハワイ大会に出場するほどになった。トレイルランという言葉はまだなかった時代だが、ランの練習を兼ねて、四国の遍路道など山道もよく走っていた。

トライアスロンに熱中していた頃

02年ハワイアイアンマンに出場(写真提供=平井)
「体力、競技力がピークだった」(平井)という05年前後のトレーニング量は、自転車で月1000㎞、ラン300~500㎞だった。
この頃は、ウルトラマラソンやアドベンチャーレースで優勝や入賞多数。大阪国際女子マラソンなど、国際レースにも出場するようになった。ウルトラマラソンではサブ10も果たした。関西夢街道グレートRUN(320㎞)完走、名古屋から金沢のさくら道ネイチャー国際ラン250㎞も好記録で完走するなど、超長距離にも強さを見せていた。
「一筆書きで長い距離のレースが好きで、いろいろ出ましたね」
自宅から大会会場まで走っていき、その大会で優勝、という有名なエピソードもある。自宅から大会会場まで走っていくことは、この頃から「よくやっていた」と平井。
「家から100㎞くらい離れているレースに出るために、前日の夜に出発して走っていったり。レースが終わってから、山に走りにいったりとか。1日24時間あるのに、たかだか1、2時間とか3、4時間のレースのために1日が終わっちゃうのがもったいなくて、前の夜から体を動かす。そういう時間の使い方をしていましたね」
四国を中心に、アマチュアアスリートとして名の知られた存在になっていた。
[続く]
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22:00
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2016年07月25日
高松商業敗れる
嫌な予感は当たるものです。
準決勝までの勝ち方が、あまりにも凄まじかったので、決勝は楽勝だろうと言う見方が大半でした。
そこに大きな落とし穴があったのかもしれません。
しかし負けるときはこんなもの。
向かってくる相手に防戦一方。
完敗でした。

高松商業の甲子園での活躍を見ることができないのかと思うと、悔しさが湧いてきますが、これが野球なのかもしれません。

残念会で、心おきなく飲みました。
新チームの活躍に期待して(^ ^)
準決勝までの勝ち方が、あまりにも凄まじかったので、決勝は楽勝だろうと言う見方が大半でした。
そこに大きな落とし穴があったのかもしれません。
しかし負けるときはこんなもの。
向かってくる相手に防戦一方。
完敗でした。

高松商業の甲子園での活躍を見ることができないのかと思うと、悔しさが湧いてきますが、これが野球なのかもしれません。

残念会で、心おきなく飲みました。
新チームの活躍に期待して(^ ^)
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21:00
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2016年07月24日
さあ、決勝だ!
日曜日の試合とあって、レクザムスタジアムは長蛇の列。
球場にたどり着かないと困るので、バイクで観戦に行きました。
球場は異様な熱気。
シード1位の大手前高松に対して初回から打線が襲いかかります。
準決勝も9-1のコールドゲーム。

いよいよ明日は決勝です。
20年ぶりの夏の甲子園を夢見て、あと1勝!
がんばれ高松商業!
球場にたどり着かないと困るので、バイクで観戦に行きました。
球場は異様な熱気。
シード1位の大手前高松に対して初回から打線が襲いかかります。
準決勝も9-1のコールドゲーム。

いよいよ明日は決勝です。
20年ぶりの夏の甲子園を夢見て、あと1勝!
がんばれ高松商業!
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15:00
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2016年07月23日
一夜明けても高商
夏休み3日目。
高松商業の記事が四国新聞に。
もちろん大々的なのは野球部。

改めて凄い。
こんなに大きく取り扱ってくれるのも嬉しい。
明日もこんな豪快な勝ち方してくれないかな^^;
一方で、こんな記事も載ってる。

こちらも四国一なんだけどね。
がんばってる。
野球はマスコミが大きく扱うから、たくさんのファンが見てくれるけど、こんな珠算や電卓の競技は、関係者ぐらいしか知らない世界。
でも四国一は凄いこと!
優勝した高松商業の選手の皆さんに拍手*\(^o^)/*
高松商業の記事が四国新聞に。
もちろん大々的なのは野球部。

改めて凄い。
こんなに大きく取り扱ってくれるのも嬉しい。
明日もこんな豪快な勝ち方してくれないかな^^;
一方で、こんな記事も載ってる。

こちらも四国一なんだけどね。
がんばってる。
野球はマスコミが大きく扱うから、たくさんのファンが見てくれるけど、こんな珠算や電卓の競技は、関係者ぐらいしか知らない世界。
でも四国一は凄いこと!
優勝した高松商業の選手の皆さんに拍手*\(^o^)/*
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10:06
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2016年07月22日
高松商業打線爆発!
選抜準優勝の高松商業高校野球部。
夏の大会でも期待がかかります。
私は物心ついたときから高商ファンで、卒業生でもあります。
春の選抜は3回も甲子園に足を運びました。
おのずと母校の活躍には、胸を躍らせています。
しかし、大阪桐蔭や敦賀気比など、有力校が次々と地方予選で敗退しています。
高松商業も不安はないとは言えません。
そんな不安を一掃するような凄まじい勝ちっぷり!
今日の高松商業はすごかった^^;


四番植田響介くんの3本塁打を含む5本塁打は、いずれも大会新記録。
ファンの心配を吹き飛ばす豪快な勝ちっぷりに、気持ちも高揚します。
明日は休養日。
明後日は春の覇者、大手前高松。
この勢いで撃破できるか?
いずれにしても、好試合を期待しましょう。
がんばれ高商!
夏の大会でも期待がかかります。
私は物心ついたときから高商ファンで、卒業生でもあります。
春の選抜は3回も甲子園に足を運びました。
おのずと母校の活躍には、胸を躍らせています。
しかし、大阪桐蔭や敦賀気比など、有力校が次々と地方予選で敗退しています。
高松商業も不安はないとは言えません。
そんな不安を一掃するような凄まじい勝ちっぷり!
今日の高松商業はすごかった^^;


四番植田響介くんの3本塁打を含む5本塁打は、いずれも大会新記録。
ファンの心配を吹き飛ばす豪快な勝ちっぷりに、気持ちも高揚します。
明日は休養日。
明後日は春の覇者、大手前高松。
この勢いで撃破できるか?
いずれにしても、好試合を期待しましょう。
がんばれ高商!
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20:57
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